うぐひすやもちにふんするえんのさき
元禄5年(1692)正月頃の作か。鴬と言えば、古来、春告鳥とも呼ばれ、めでたく雅なものとして詠まれては来た。ところが、掲句では、その糞が餅に落ちるという卑俗な場景を詠んで、雅俗という二項対立の超克に詩的昇華を求めている。これまで固定観念化されてきた鴬のイメージを打破すること、つまり、鴬という言葉によって隠蔽されてきた「鴬」の本性に迫ることが可能になり、俳諧的な新しい詩性が開かれたと言ってようだろう。当然と言えばそうかもしれないが、それだけ和歌が長らく伝統的な固定観念に囚われて鴬が詠まれてきたということだろう。
鴬も我々人間も同じく糞をする動物に変わりはない。人間は糞をすることを隠すが、むしろ、雅な鴬はところ構わず糞をするが、鴬に何の罪もない。ただ、人間が食べる餅の上だから、人間が迷惑するだけである。その迷惑だって人間の勝手な言い分である。勝手に雅なものとして人間が珍重してきた鴬によって、人間の浅ましさもそこに露呈され、滑稽が生じる。その滑稽こそが俳諧における詩性の根源であることを再確認させられる。元禄時代の俳諧は、すでに和歌的な「雅」に傾斜して、本来の面目を失っていたのであろう。ここに古い固定観念を打破して、もう一度、日常卑近に詩性を見出すことを芭蕉は掲句において体現したのだと思う。晩年の芭蕉が目指した「軽み」の先蹤がここに覗える。
季語 : 鴬(春) 出典 : 『鶴来酒』(『葛の松原』)
A bush warbler —
poop on the rice cake
at the veranda's edge