きやうにてもきやうなつかしやほととぎす 元禄3年(1690)6月20日付の書簡に掲句の原句が見える。ちょうど4月初旬から7月下旬まで「幻住庵」に隠棲していた時期に当たるから、一時的に京へ出向いた際の句と思われる。 京にいながらにして、時鳥の鳴き声を聞…
やがてしぬけしきはみえずせみのこゑ 元禄3年(1690)、加賀の門人・秋之坊が幻住庵を訪ねた際に、芭蕉が彼に与えた句という。蝉は羽化すると間もなく死ぬが、今を盛りに鳴く蝉にはそんな気色など微塵も感じさせないという句意である。 ところで、秋之坊の素…
まづたのむしひのきもありなつこだち 元禄3年(1690)4月の作か。『おくのほそ道』の旅を終えて、芭蕉は、近江膳所の義仲寺無名庵に滞在していたが、門人の菅沼曲水から勧められて、4月6日から4ヶ月間を山中の小庵で過ごした。この庵は、もともと曲水の伯父…
くさのはをおつるよりとぶほたるかな 元禄3年(1690)の作。近江瀬田での作か。句意は明良で、蛍が草の葉から落ちる瞬間に飛び立った光景を詠んだものである。あくまでも客観的な表現に徹しながらも、そこに一抹の愛しみも滲ませている。それには決して平坦…
ゆくはるをあふみのひととおしみける 元禄3年(1690)の作。当初『堅田集』では、「行春やあふみの人とおしみける」と記されおり、「志賀辛崎に舟をうかべて、人々春の名残をいひけるに」と前書がある。一方、『猿蓑』では、前書きに「望湖水惜春」とある。…
きのもとにしるもなますもさくらかな 元禄3年(1690)3月2日、伊賀上野での作。掲句は、藤堂藩士・小川風麦亭で巻かれた歌仙の発句であり、その後、近江膳所での歌仙でも用いられている。それだけ芭蕉にとって掲句が重要な意味を持っていたことの証左と言え…
つきさびよあけちがつまのはなしせむ 元禄2年(1689)秋、伊勢山田での作。『おくのほそ道』の旅を終えた芭蕉は、その足で伊勢神社の御遷宮を拝するために伊勢を訪れたが、その際、伊勢神宮の神職で俳人でもある島崎又幻(いうげん)宅に逗留した。もっとも…
はまぐりのふたみにわかれゆくあきぞ 元禄2年(1689)8月6日、美濃・大垣での作。芭蕉は、同年7月14日には敦賀に至り、そこで大垣から出迎えてくれた八十村露通と共に、同月21日に『おくのほそ道』の旅の終着地である大垣に入った。山中温泉で別れて伊勢・長…
いしやまのいしよりしろしあきのかぜ 元禄2年(1689)8月5日、加賀・那谷寺(なたでら)での作。当日は、昼時分に芭蕉は北枝と共に山中温泉を発ち、那谷寺へ向かった。曾良はそれを見送ったあと、体調不良のこともあり、親戚のいる伊勢・長島へ向かった。江…
やまなかやきくはたをらぬゆのにほひ 元禄2年(1689)7月27日の夕刻、芭蕉は山中温泉に着き、8月5日まで和泉屋という湯宿に逗留する。山中温泉の歴史は古く、奈良時代に行基によって開湯説もあるが、平安時代に、白鷺が足の傷を癒やしていた小川を能登の地頭…
むざんやなかぶとのしたのきりぎりす 元禄2年(1689)7月27日、加賀・小松での作。芭蕉は、太田神社(現・多太神社)を参詣し、斎藤実盛の兜と錦の直垂を拝している。前者は源義朝より、後者は平宗盛より下賜されたものである。 実盛は、越前の出身であるが…
つかもうごけわがなくこゑはあきのかぜ 元禄2年(1689)7月22日、加賀・金沢での作。芭蕉は、倶利伽羅が谷の古戦場跡を経て7月15日に金沢城下に入っている。 ちなみに、その谷は倶利伽羅峠の南斜面にあり、寿永2年(1183)、木曾義仲が火牛の計で平家の大軍…
あかあかとひはつれなくもあきのかぜ 元禄2年(1689)7月17日、金沢での作。この日、芭蕉は立花北枝の源意庵に招かれて掲句を詠んだという。ここから見えた夕日かもしれないが、おそらく、日本海の夕日が見えた旅路での着想のような気もする。いずれにしても…
ひとつやにいうぢょもねたりはぎとつき 元禄2年(1689)7月12日、市振での作。北陸道を西に向かった芭蕉は「親不知・子不知」の難所を越えて、市振の宿で一泊する。掲句における「一家」とは、桔梗屋という旅籠のことである。そこで、一間隔てた部屋から若い…
ふみづきやむいかもつねのよにはにず 元禄2年(1689)7月6日、越後・直江津での作。『おくのほそ道』では、越後路での吟であることは分かるが、句の背景は不詳である。『雪満呂気』では「直江津にて」と前書きがあり、『曽良随行日記』では、直江津今町(現…
あらうみやさどによこたふあまのがは 元禄2年(1689)7月4日、越後・出雲崎での作か。芭蕉は午後3時過ぎに出雲崎に到着した。しかし、『おくのほそ道』には、越後路の段に掲句が記されているが、当地のことが一切触れられていない。おそらく、前段に「病おこ…
きさかたやあめにせいしがねぶのはな 元禄2年(1689)6月17日、象潟での作。今から約2600年前、鳥海山の噴火による岩なだれは日本海に至り、海を浅くして幾つもの小島(流れ山)ができた。やがてその辺りが、海岸砂丘によって塞がれて、東西20町(約2200m)…
あつきひをうみにいれたりもがみがは 元禄2年(1689)6月14日、酒田での作。前日の13日、出羽三山を発った芭蕉は、鶴ヶ岡城下を経て、そこより再び最上川を舟で下って酒田へ向かった。酒田は、最上川の水運を介して紅花などの物産が集積する港町で、日本海に…
くものみねいくつくづれてつきのやま 元禄2年(1689)6月6日、芭蕉は、朝、羽黒山を発って、約32キロの行程で月山に登った。途中にある幾つもの難所を越えて、午後3時過ぎには頂上に到着して月山権現を参詣している。掲句からは、ゆっくりと流れる「雲の峯」…
すずしさやほのみかづきのはぐろさん 元禄2年(1689)6月5日、羽黒権現(現・出羽三山神社)に参詣した際の作。陽暦では7月21日にあたり、江戸では夏の暑さも本格的になり始める頃であるが、奥州では夜の涼しさが心地よい時季であったろう。空に浮かぶ三日月…
ありがたやゆきをかをらすみなみだに 元禄2年(1689)6月4日、羽黒山での作。芭蕉は、前日の3日に修験道羽黒派の本山を訪れている。その南谷の別院に逗留し、翌4日に本坊にて別当代会覚阿闍梨に謁し、そこで厚遇を受ける。羽黒山は神仏習合の地で、仏教関連…
さみだれをあつめてはやしもがみがは 元禄2年(1689)5月の作。最上川は山形県と福島県の境にあたる吾妻山付近より発して、山形県の中央を北上し、尾花沢市あたりで北西に向かって、酒田市で日本海に至る、日本三大急流の一つである。芭蕉は本合海から古口ま…
しづかさやいはにしみいるせみのこゑ 元禄2年(1689)5月27日、立石寺での作。前文から掲句が詠まれた場景がよく分かる。「山形領に立石寺といふ山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊に清閑の地なり。一見すべきよし、人々の勧むるによりて、尾花沢よりとつて…
すずしさをわがやどにしてねまるなり 元禄2年(1689)5月17日、出羽・尾花沢に着き、同月27日まで門人の鈴木清風邸に逗留する。清風は、紅花問屋を営み、江戸との往来もあり、芭蕉の門に入る。掲句の前文には、「尾花沢にて清風と云者を尋ぬ。かれは富るもの…
のみしらみうまのばりするまくらもと 元禄2年(1689)5月15日、芭蕉は尿前の関を越えて、新庄の堺田に至るが、あいにくの大雨にて山中の宿に二泊する。小さな集落ということもあり、ほぼ民家に近い宿だったのだろう。夜は蚤や虱に悩まされ、枕もとでは、馬が…
さみだれのふりのこしてやひかりだう 元禄2年(1689)5月13日、平泉中尊寺を参詣しての作。前文を示す。「かねて耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散り失せて、玉の扉風に破れ、金の柱霜雪(さう…
なつくさやつはものどもがゆめのあと 元禄2年(1689)5月13日、平泉高館での作。平泉では、高館、衣川、衣ノ関、中尊寺、光堂などを訪れている。まず源九郎判官義経の居館があった高館から巡ったのも、やはり、彼の悲劇的な最期を悼む思いが強かったからと思…
しまじまやちぢにくだけてなつのうみ 元禄2年(1689)5月9日、芭蕉は、朝に塩竃神社に参詣したあと、船に乗って千賀の浦、籬島、都島を巡って、正午頃に松島に到着している。瑞巌寺を参詣したのち、雄島に渡り、八幡社、五大堂を見て、松島の宿に帰っている…
かさしまはいづこさつきのぬかりみち 元禄2年(1689)5月4日、名取市愛島での作。芭蕉は、藤中将実方(藤原朝臣左近衛中将実方)の塚を尋ね歩き、村人から「是より遥か右に見ゆる山際の里を、箕輪・笠島と云ひ、道祖神の社 ・形見の薄今にあり」と教えられる…
さなへとるてもとやむかししのぶずり 元禄2年(1689)5月2日、信夫の里(福島市山口文字摺)での作。芭蕉は、しのぶもぢ摺りの石(信夫文知摺石)を尋ねて当地を訪れたが、その石は下半分を土に埋もれて放置されていた。里の子供が言うには「昔は此山の上に…