俳句・短歌ランキング

芭蕉百句 100 haikus of Basho

五島高資による芭蕉百句の評釈と英訳(漸次更新中) 100 haikus of Basho selected and translated into English by Takatoshi Goto

しばらくは滝にこもるや夏の初め

しばらくはたきにこもるやげのはじめ

 

 元禄2年(1689)4月2日の作。前文に「二十余町山を登つて滝有り。岩洞の頂より飛流して百尺、千岩の碧潭に落ちたり。岩窟に身をひそめ入りて、 滝の裏より見れば、裏見の滝と申し伝へはべるなり。」とある。この滝は大谷川の支流である荒沢川にあり、滝の裏側からも飛瀑を見ることができたために裏見滝(うらみたき)と名付けられた。華厳滝、霧降の滝と共に日光三名瀑の一つに数えられている。

 ところで、仏道修行である夏安居(げあんご)や夏籠(げごもり)は、略して夏(げ)という。芭蕉もこの滝の裏側の岩窟に籠もって滝を見ながら涼を取っているうちに、あたかも夏を修しているかのような心境となったのであろう。折しも、初夏ということもあり「夏の初め」と表現しているが、「初め」には、仏道修行ならぬ俳諧修行として、これから本格的な「みちのく」行脚に臨む芭蕉の気構えも感じられる。

 現在、滝の裏側へ行けないようだが、二十数年前に私が訪れた際は左側の山道から滝の裏側にある岩窟へ出ることができた。そこには不動明王が祀られており、眼前には滝が滾り落ちており、少しく夏籠の雰囲気を味わうことができたことを憶えている。

 

季語 : 夏 [げ](夏) 出典 : 『おくのほそ道』

 

For a while
confined myself behind the waterfall
as starting a Geango

 

geango : Buddhist ascetic discipline at the place to be able to protect itself from rain in summertime

 

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裏見の滝

あらたうと青葉若葉の日の光

あらたうとあおばわかばのひのひかり

 

 元禄2年(1689)4月、日光での作。前文には次のように記されている。

 

 卯月朔日、御山に詣拝す。往昔、此御山を「二荒山」と書しを、空海大師開基の時、「日光」と改給ふ。千歳未来をさとり給ふにや、今此御光一天にかゝやきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵の栖穏なり。猶憚多くて筆をさし置ぬ。

 

 御山とは日光山のことであり、8世紀後半、勝道上人がここを修験道場として開基した。「空海大師開基」とは芭蕉も筆の誤りである。もっとも、勝道の要請で空海が日光山についての文章を書いており、それは「沙門勝道山水を歴て玄珠を瑩く碑并びに序」として『遍照発揮性霊集』に記されている。その文章はあたかも空海自身が日光山を訪れたと思われるくらい精緻な名文であり、勝道と空海の深い絆が覗われる。

 ところで、日光の社寺は、深い山奥に忽然と現れることもあり、いっそうその絢爛豪華さが際立つ。特に東照宮の陽明門はあまたの極彩色彫刻で覆われ、要所に多くの金箔が施された光り輝く楼門であり、まさに徳川幕府の絶大なる権威を象徴するものである。芭蕉は境内の青葉や若葉に映える日の光を詠んでいるが、そこには、前述したような徳川幕府の威光も重ねられている。「あらたうと」つまり、何と尊いことかという讃辞や前文に見える幕府の治世への敬仰からもそれがよく分かる。掲句の初案は「あなたふと木の下暗(したやみ)も日の光」(『曾良書留』)であったが、これでは、木下(豊臣)政権を揶揄して余りあるので、推敲して掲句に落ち着いたということであろう。

 ちなみに、青葉が季語として定着するのは近代になってからであり、掲句では、若葉の彩りを豊かにする措辞と考えられる。音韻的にも上五とa音で頭韻を踏んで快い。また、初夏の日光山に茂る若葉やそこに映える日の光に触発された造化の妙に対する畏敬の念も感じられる。初案の句に覗われる貞門俳諧的傾向からの脱却をここに見ることができよう。

 

季語 : 若葉(夏) 出典 : 『おくのほそ道』

 

How sacred
green leaves, young leaves shining
with sunlight

 

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陽明門・日光東照宮

糸遊に結つきたるけふりかな

いとゆふにむすびつきたるけふりかな

 

 元禄2年(1689)3月29日の作。前書に「室八島」とある。ここは『おくのほそ道』に記された、芭蕉が最初に訪れた神域であり歌枕の地である。周知のように古来「室の八島」を詠む場合、「けふり(煙)」を詠み込む慣わしがある。その由来については、境内の泉水から立ち上る水蒸気であると言われてきた。しかし、『おくのほそ道』においては、ここでの芭蕉の句は見当たらず、曽良が、「けふり」の縁起として、一夜にして懐妊した木花咲耶姫が身の潔白を立てるため燃える無戸室のなかで彦火火出見尊を産んだ故事などを記しているのみである。また、貝原益軒の『日光名勝記』(1714年刊)によれば、「室の八嶋古哥に多くよめる名所也。しまのまハりの池より、水気の煙のごとく立けるを賞翫しける也。其村の人あまたに問しに、今ハ水なきゆへ、烟もなしといへり。」とあり、当時すでに泉水は涸れていた可能性が高い。もっとも、池の中に八つの小島が浮かぶ「室の八島」は近年になってからの再建である。

 私が群馬県立女子大学のリサーチ・フェローとして行った古代東国の地域学的研究 を通して分かったのは、10世紀くらいまで「室の八島」が東国における古代製鉄の中心地だった可能性が高いことである。「室の八島」の周辺には、鉄の原料として、葦などの根に着くバクテリアによって作られた水酸化鉄が長い年月に沈降してできる「鬼板」と呼ばれる鉄の原料が豊富なことや、古代製鉄遺跡が多く発見されていることなどがその理由である。しかも、当時の鉄の値段が他の東国諸国に比べて「室の八島」のある下野国が最も安価であり、つまり、そこで大量の鉄が生産されていた可能性が高いことが示唆されたのである。平安時代までは、自然風を利用して比較的低温でも塊鉄を製造できる塊鉄炉(酸素との接触を防ぐために土などで覆いつくして一酸化炭素による還元状態を保たせた製鉄炉)が多く用いられたが、これは図らずも曽良が言及した「無戸室(うつむろ)」と形態が酷似している。ちなみに塊鉄は英語で「bloom」と書き、「花」を意味し、偶然にも「木花咲耶姫」を連想させる。さらに、彦火火出見尊は製鉄技術を持った海(天)神族であったという説もある。また、「室の八島」のすぐ近くには下野国府跡をはじめ、「鋳物師内」「金井」などの地名が残っており、そこに一大製鉄施設があったことを覗わせる。古代において武器や農具として鉄は重要な物資であり、製鉄炉からは「けむり」が昼夜分かたず昇っていたことが想像される。このように考えると、古人が詠んだ「けふり」とは、塊鉄炉の煙だったのではなかと思われる。そもそも「室」とは、内部を外気に触れさせないための構造物であり、また「八島」とは、竈(かまど)という意味もある。もっとも、芭蕉が「室の八島」を訪れた江戸時代には、すでに日本の製鉄は塊鉄炉より効率の良い踏鞴製鉄が開発されており、その中心地も中国地方などに遷っていた。そうした事由から次第に「室の八島」と「けむり」の関係性も不確かになっていったのではないだろうか。

 掲句は、「けふり」をきちんと詠み込んでおり聖地に対する挨拶としては申し分がない。しかし、それはなぜか『おくのほそ道』には取り上げられなかった。それは、おそらく当時の「室の八島」に煙が立っていなかったという事実はもとより、慣習的に幻の「けふり」を糸遊に結びつけて詠んだ句だったからではないだろうか。たとえ水烟だとしても、糸遊すなわち陽炎が出るような暑い昼間ににそれが見える可能性は低い。最初の歌枕の地になる掲句を芭蕉があえて『おくのほそ道』に載せなかったのは、形式主義的に歌枕を詠むことに堪えなかった彼の「真実」探求への厳しい決意によるものだったのだと思う。

 

季語 : 糸遊(春) 出典 : 『おくのほそ道』

 

a finger of smoke
getting tangled up
in the heat haze

 

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室の八島

行春や鳥啼魚の目は泪

ゆくはるやとりなきうをのめはなみだ

 

 元禄2年(1689)3月27日、芭蕉と河合曽良は、早暁に深川から舟で隅田川を北上して千住にて上陸し、日光街道へ入った。舟に乗って同行してきた親しい人々とは、千住で別れることとなる。掲句の前文に「前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに別離の泪をそゝく」(『おくのほそ道』)とある。今回の旅は長い行程となるため、客死も覚悟とはいえ、深川での生活や親しい人々との離別はやはり辛いものである。もっとも、それが儚い仮の世との別れだと分かっていても涙が溢れてくる。そうした悲しみの中では、鳥の声も嘆きに聞こえ、魚までもが泪しているように感じられる。ましてや春も過ぎゆく時季とあってはなおさらである。

 「ちまた」とは「岐」とも書くように千住は、芭蕉にとって「仮の世」(現世)を後にして「真の世」(来世)へ向かう岐路でもあったのである。そう考えると、まるで此岸と彼岸を分ける三途の川のような隅田川千住大橋が架かっている光景が思い浮かぶ。ちなみに、「千住」という地名は旧荒川(隅田川)から拾い上げられた千手観音に由来するという。また、「千住」という言葉は、『おくのほそ道』の冒頭に見える、船頭や馬子が「日々旅にして旅を栖(すみか)とす」という記述、あるいは、逆に長い年月に亘る居住にも通じて、まさに「漂泊」と「定住」の分岐点として相応しい地名とも言えるかもしれない。いずれにしても、掲句を「矢立の初め」として、ここから「風雅の誠」を探求する芭蕉一行の大いなる『奥の細道』の旅が始まるのである。

 

季語 : 行春(春) 出典 : 『おくのほそ道』

 

Spring is passing
birds cry and tears welled up
in fishes' eyes

 

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千住の大橋・名所江戸百景

草の戸も住替る代ぞひなの家

くさのともすみかはるよぞひなのいへ

 

 元禄2年(1689)3月27日、芭蕉は「みちのく」を目指して『奥の細道』の旅に出立する。その直前、江戸・深川の芭蕉庵を人に譲り、近くにある杉山杉風の別荘・採荼庵に移り、旅支度に勤しむことになる。その際、今まで侘び住まいで閑散とした草庵も、新しい住人のもとで華やかに飾られた雛を見て時の移ろいに感慨を深くしたのである。

 『奥の細道』の旅は、ちょうど西行の五百回忌にあたる年に、「みちのく」へ発つことになるが、全行程が約600里(2400キロメートル)、日数で約150日間と、これまでにない長い旅程である。掲句のあとに、「上野谷中の花の梢又いつかはと心ぼそし」と述べられており、当時としては高齢で、胆石症などの持病も抱えた芭蕉にとっては客死も覚悟の長い行脚であったことが分かる。しかし、それを押してでも「みちのく」へ出向かなくてはならなかったのは、文明が発展した江戸や京などで忘れかけられていた日本の伝統的精神文化がそこにしっかり残っており、実際にその地に自らの足を運んで古人の求めたるところを実感することが、新しい俳諧精神の確立にとって不可欠であると芭蕉が思い定めていたからであろう。一見、桃の節句を言祝ぐような掲句だが、「ぞ」という強調の助詞に後戻りできない時空に対する惜別の念も込められているような気がする。

 

季語 : ひな(春) 出典 : 『おくのほそ道』

 

A thatched hut
new residents turned it into
a house of dolls

 

Doll’s Festival is celebrated each year on March 3, which is Japanese teadisional occasion to pray for young girls’ growth and happiness.

 

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雛飾り

おもしろやことしのはるも旅の空

おもしろやことしのはるもたびのそら

 

 元禄2年(1689)の作か。『甲子吟行野ざらし紀行)』や『笈の小文』の旅など、貞享年間はまさに「漂泊」の生活が続いたが、今年の春も旅の空を仰ぐことになりそうで、それもまた楽しみなことであるといった句意。『去来文』の「よとぎの詞」は、長崎への旅に思いを馳せた向井去来の文章であるが、その中に掲句が記されている。ちなみに『奥の細道』の旅のあとに芭蕉は長崎への旅を予定していたとされるが、これは大坂における芭蕉の客死によって幻に終わる。

 かくして、同年の暮春、芭蕉は『奥の細道』の旅へと出発することになる。深川の芭蕉庵で少時の休息を取ったあと、芭蕉は「みちのく」の空の下を旅することになる。もちろん、この旅は、歌枕をはじめ西行や能因などの旧跡を辿りながら故人が求めたところを求めて「風雅の誠」に迫る旅でもあった。

 以前、ある航空会社がその広告に掲句を用いていたのを見てなるほど良い句を選んだなと感心したことを憶えている。いずれにしても、最後の旅として芭蕉が「長崎」の旅を実現させていたなら、どのような句を詠んだかと実に興味の尽きないところである。

 

季語 : はる(春)あるいは、ことし(新年) 出典 : 『去来文』

 

How exciting
going to journey this spring too
under another sky

 

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阿武隈川

ほとゝぎす今は俳諧師なき世かな

ほととぎすいまははいかいしなきよかな

 

 延宝末年〜貞享初年の作(推定)。ホトトギスは古来より和歌に詠まれてきたが、今、この声を聞いてもそれを句にすべき真の俳諧師はもはやいない世であると嘆いているのである。

 延宝年間(1673年〜1681年)には、貞門俳諧を抑えて談林俳諧が隆盛していたことが背景にあるのかもしれない。両者とも和歌の伝統的な措辞に拠りながらも、前者ではあくまでも形式主義に拘泥し、後者では、「軽口」「無心所着」といった言語遊戯的な趣向に傾斜していくことになる。

 当初、貞門派であった芭蕉も、「上に宗因なくんば,我々が俳諧今以て貞徳が涎をねぶるべし。宗因はこの道の中興開山なり」(『去来抄』)と述べているように、西山宗因による談林俳諧に旧染の打破という一定の評価を持っていた。しかし、一昼夜に2万3500句を独吟する「矢数俳諧」など、その俳諧があまりにも伝統的和歌の精神から逸脱し、常識をかけ離れた過度な言語遊戯に陥るようになると、芭蕉はこれに失望することになる。

 掲句は、そうした当時の俳諧への批判が込められているように思われる。そして、芭蕉は貞門と談林を超克する真の俳諧を模索するようになる。やがて『甲子吟行野ざらし紀行)』『笈の小文』といった漂泊の旅によって、「侘び」「さび」などを介した「風雅の誠」を探求し、新しい俳諧精神の真髄を培うことになる。その成果は、間もなく『奥の細道』において結実することになる。

 

季語 : ほとゝぎす(夏) 出典 : 『鹿島紀行(寛政版)』

 

Lesser cuckoo
no true Haiku poets as yet
in this world

 

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ホトトギス

蓮池や折らで其まゝ玉まつり

はすいけやおらでそのままたままつり

 

 貞享5年(1688)7月、尾張・鳴海の下里知足邸での作。折しも下里家では精霊会が行われており、その庭の池には蓮の葉が繁っていたのであろう。それは折り取られることもなく、先祖へそのまま手向けられているのである。そうした自然をそのまま愛する主の優しい心根に感銘したのであろう。蓮は泥土より生じて清らかな茎を伸ばして葉を広げて花を咲かせる。それは開悟や仏の智慧や慈悲を象徴するものであり、まさに精霊会に相応しい。中七から下五へ連なるa音も快い響きを添えている。

 

季語 : 玉まつり(秋) 出典 : 『千鳥掛』(『風の前』)

 

Lotus pond —
leaving the leaves as they are
for the ancestors' festival

 

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はつ穐や海も青田の一みどり

はつあきやうみもあをたのひとみどり

 

 貞享5年(1688)初秋の作。前書に「鳴海眺望」とある。鳴海は東海道五十三次四〇番目の宿場であったが、現在では埋め立てにより、歌枕の鳴海潟は消失し、海を見ることはできない。掲句は、当時、そこにあった児玉重辰亭で詠まれた発句であり、おそらくその席上から見える青田の先に海が見渡せたのであろう。遠く青田と海の接するあたりでは両者の色合いも近く、あたかも、海が青田の一部として同化しているように捉えたのが「一みどり」という措辞に表れている。

 ちなみに、「みどりの黒髪」「みどり児」などの言葉があるように、本来、「みどり」とは、「緑」や「青」という色彩ではなく「瑞々しさ」を示すものであった。つまり、瑞穂や海鮮にも通じる「瑞々しさ」も掲句の「一みどり」に込められているように感じられる。また、「鳴海」は「成る身」と掛詞にもなることから、「海」も「青田」の「みどり」に包摂されて一つに成ると敷衍されるかもしれない。さらには、縄文稲作の可能性はさておき、弥生時代における大陸から海を渡って伝わった稲作文化や日本の美称である瑞穂国のことなども脳裡を過ぎる。季重なりではあるが、爽やかな風が陸海を瑞々しく吹き渡る光景が思い浮かばれて「はつ穐」すなわち「初秋」がうまく活きている。

 

季語 : はつ穐(秋) 出典 : 『千鳥掛』

 

Early autumn —
the sea is unified into green
of rice fields

 

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青田

おもしろうてやがてかなしき鵜舟哉

おもしろうてやがてかなしきうぶねかな

 

 貞享5年(1688)、岐阜長良川で鵜飼を見ての作。『笈日記』には「稲葉山の木かげに席をまうけ盃をあげて」とあり、芭蕉は闇夜に篝火が灯る鵜舟を河畔から眺めた。初めは、その珍しい漁に興味が湧いて酒も進むが、やがて漁が終わり篝火も消えて舟も去り、もとの暗い静寂に包まれる。古来からの漁法とはいえ、捕らえられる魚はもちろん、「疲れ鵜」という傍題季語があるように鵜にとっても難儀なことであろう。そう考えると、「面白さ」から「悲しさ」へと変わる心境に人生の辛さや儚さも重なってくる。もっとも、芭蕉には謡曲『鵜飼』における仏教的無常観が掲句の下地にあったことは多く指摘されているところである。

 余談になるが、『グレン・グールド バッハ没後250年記念 総特集』(『文藝別冊』KAWADE夢ムック)において、グレン・グールドの特集が組まれていた。彼がよく朗読していたという夏目漱石の『草枕』が、死後、ベッドの脇から聖書とともに見つかったことや、俳句や禅といった日本文化にも親しんでいたらしいことが書かれてあった。また、「グレン・グールド変奏曲」というインタヴュー記事のなかで、武久源造氏は、グールドの音楽を「最も冷たい温度で燃える火」といい、横田庄一郎氏は、グールドのデビュー盤から聴いてきて思い浮かべるものとして、掲句を挙げ、あらゆる芸術に通じる真髄をよく言い表していると述べていた。

 武久氏がいう蛍の光にも似た「冷光」も、そして闇夜に浮かぶ鵜舟の「篝火」もまた畢竟、タナトスの彼方なる「死」という暗闇に浮かんでは消え入りそうな「実存」という「光」に収斂されるのではないだろうか。芭蕉が喝破した「物の見えたる光いまだ心に消えざる中にいひとむべし」(『三冊子』)とは、まさに「さび」の極限において、言葉を以て言葉を超える芸術的昇華に迫る瞬間の大事を言っているのだと思う。

 

季語 : 鵜舟(夏) 出典 : 『曠野』(『泊船集』『青莚』)

 

After exciting
a sadness sank deeply into my mind
as cormorant boats passed

 

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鵜舟の篝火