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芭蕉百句 100 haikus of Basho

芭蕉百句の評釈と英訳(漸次更新中) 100 haikus of Basho selected and translated into English by Takatoshi Goto

芭蕉百句 100 haikus of Basho 完結 !!

何とか芭蕉百句の解説と英訳を終えました。これも陰に陽に支えて下さった皆様のお蔭と心よりお礼申し上げます。不備も多々あると思いますので、お気づきの点はご遠慮なくお申し付け下さい。推敲を重ねた上で、きちんとした形で出版できたらと考えています。深謝まで。

2021年5月5日

五島高資

旅に病で夢は枯野をかけ廻る

たびにやんでゆめはかれのをかけめぐる

 

 元禄7年(1694)10月8日の作。『笈日記』には前書として「病中吟」とある。たしかに芭蕉が最後に詠んだものであり、辞世の句としてよく知られている。

 天野桃隣の『陸奥鵆』には、同年5月、江戸を発つ際、芭蕉が「此度は西国にわたり長崎にしばし足をとめて、唐土舟の往来を見つ、聞馴ぬ人の詞も聞ん」と願い、西国行脚の意向を持っていたことが記されている。そうすると、同年秋に大坂に芭蕉が訪れたのは、同地の門人同士の諍いを仲裁する目的もあったが、西国行脚の途次でもあったことになる。

 芭蕉は大坂に着いた頃に悪寒と頭痛を催し、いったん恢復するが、9月29日より下痢が続き容態が悪化し臥床する。10月5日には、手狭な槐本之道邸から花屋仁左衛門の離れ座敷に病床が移された。10月8日の夜更けに、芭蕉は之道の門弟・呑舟を召して墨を磨らせて、「病中吟」と題して掲句をしたためた。病が癒えれば西国へ向かうことを思っていたのであろう。もっとも、芭蕉の「平生則チ辞世なり」(いつ死ぬかも分からないのだから、普段においてただいま詠んだ句が辞世である)という覚悟に鑑みれば、結果的に、掲句が辞世の句となったと考えることもできる。

 もちろん、病状の重篤さから芭蕉が自らの死が近いことを感じ取っていたことは間違いない。『笈日記』には、芭蕉が生死の際でさえ発句を詠まんとする風雅の心を妄執として嘆じたことが記されている。しかし、『枯尾花』には、「妄執ながら、風雅の上に死なん身の道を切に思ふ」とも述べており、妄執と知りつつも芭蕉が最も愛着したのが「風雅の誠」であり、それとともに最期を迎えることは、もとより、彼の本望であった。

 いずれにしても、旅の途中で病を得て枯野のような生死の間にあって、芭蕉の魂が風雅を探求する夢と一体化し永遠に駆け巡っている光景が掲句には立ち現れてくる。しかも、「病(み)て」ではなく、「病(ん)で」としたところに、平生の口語調を大切にした「軽み」の精神も覗える。幾多の艱難を乗り越えて、漂泊に一生を送り、俳諧の道一筋に生きて、俳諧を芸術の域にまで高め、さらにそれさえも超えようとした飽くなき求道者・芭蕉の辞世として実に相応しい。西国行脚は夢に終わったが、芭蕉の詩魂は生死を超えて今もなお私たちの心を惹きつけて止まないものがある。

 

季語 : 枯野(冬) 出典 : 『笈日記』(『枯尾花』『芭蕉翁行状記』)

 

 

Composed while sick

 

Sick on the journey
my dreams are coming and going
around a desolate field

 

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枯野

秋深き隣は何をする人ぞ

あきふかきとなりはなにをするひとぞ

 

 元禄7年(1694)9月28日の作。大坂を訪れていた芭蕉は、翌29日に催される芝柏亭の句会に招かれていたため、前日に詠んだ掲句を予め送っていた。しかし、当日、芭蕉は体調不良のために欠席している。おそらく前日から何らかの症候があったのだろう。そして、そのまま病の床に就いた芭蕉は再び起き上がることはなかった。

 深まり行く秋のなかで、深閑とした隣家に思いを馳せるが、その消息は分からない。別に詮索しているわけではなく、隣人も自分と同じように隠棲しているのだろうかと、むしろ、共感の思いを深めているのである。やはり、俳諧の道は孤独とは言っても、発句は、他者への挨拶であり思い遣りを第一義とすべきものである。病に臥せる身でありながら、そうした俳諧精神を忘れない芭蕉の心根がしみじみと伝わってくる。

 

季語 : 秋深し(秋) 出典 : 『笈日記』

 

Autumn deepens
how does my neighbor live quietly
I have consideration

 

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垣根

此道や行人なしに秋の暮

このみちやゆくひとなしにあきのくれ

 

 元禄7年(1694)9月の作か。同年9月23日付の「意專・土芳宛」書簡には、「秋暮」と前書きして「この道を行く人なしに秋の暮」とあり、これでは単なる蕭条とした秋の夕景の描写に留まる嫌いがある。

 しかし、『笈日記』によれば、9月26日、大坂にて上五が「此の道や」、前書も「所思」と改められている。そして、芭蕉は、各務支考に対して、掲句とともに「人声や此の道かへる秋の暮」を提示し、その優劣を問うたところ、支考が「此の道や行く人なしに独歩したる所誰か其後に随ひ候はん」と応えて、芭蕉もこれを諒としたという。つまり、芭蕉が晩年に志向した「軽み」の至境に門人らがついてくるのが難しいことを憂えていたことを支考は察していたのかもしれない。いずれにしても「切れ」によって豊かな詩想がもたらされることになる。

 もっとも、芭蕉の心底には、寒山の『寒山詩』における「寒巖深更好、無人行此道。白雲高岫閒、青嶂孤猿嘯。」という句があったと思われる。道心を極めた者や天才が抱く孤高の寂しさが掲句には込められているのである。

 芭蕉の生涯を振り返ると、貞門、談林を経て「さび」や「風雅の誠」による蕉風俳諧を確立し、今、「高悟帰俗」から「軽み」へと続く一本の道が見えてくる。詩境が高まれば高まるほど孤愁の思いは深まる。しかし、それでも、俳諧精神は必ず他者へ開かれたものでなくてはならない。そう考えると「人声や此の道かへる秋の暮」にもまた意義深いものがあると言えよう。

 

季語 : 秋の暮(秋) 出典 : 『笈日記』

 

 

Thought

 

This way —
no one goes
autumn evening

 

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夕景

蓮のかを目にかよはすや面の鼻

はすのかをめにかよはすやめんのはな

 

 元禄7年(1694)6月の作。『うき世の北』には「丹野が舞台にあそびて」と前書がある。丹野とは、大津の能太夫・本間主馬の俳号である。掲句は、丹野邸に招かれて能を鑑賞した際に詠まれたものである。

 能面は、その目からは外がよく見えないので鼻の孔から見るという。したがって、面をつけて舞っていると、とどこからとなく蓮の花の香りがしてくるので、その鼻の孔から蓮を覗った。そのことを「目に通わす」と表現したのである。ちなみに「目から鼻に抜ける」とは、抜け目がなく賢いことを意味するが、掲句の場合は逆であり、悠然とした趣が漂っている。また、「鼻」で蓮の花を見るというところに俳諧の妙が感じられる。

 

季語 : 蓮(夏) 出典 : 『觀魚莊圖錄』(『笈日記』)

 

The scent of lotus flower
coming through the nose of Noh mask
to my eyes

 

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蓮の花

ひやひやと壁をふまへて昼寐哉

ひやひやとかべをふまへてひるねかな

 

 元禄7年(1694)の作。『芭蕉翁行状記』には「粟津の庵に立ちよりしばらくやすらひ給ひ、残暑の心を」と詞書きがある。『笈日記』では、芭蕉各務支考に「この句はどう解釈するかね」と尋ねると「残暑の句と思います。きっと蚊帳の釣手などに手を絡ませながら、物思いに耽っている人の様子でしょう」と応えている。すると芭蕉は「この謎は支考に解かれたな」と笑ったと記されている。

 おそらく、寝そべったまま足を壁に凭せかけた芭蕉が足裏に冷ややかさを感じたのである。壁はおそらく土壁だったのであろう。元禄時代までは「昼寝」は夏の季題とはされていなかったので、その触感はまさに秋の訪れを感じさせる「秋冷」だったのである。もっとも、まだ残暑の候であるから、心地よい冷ややかさだったのであろう。童心に帰ったような芭蕉の無邪気さが感じられ、ここにも「軽み」の詩境が感じられる。

 

季語 : ひやひや(秋) 出典 : 『笈日記』(『芭蕉翁行状記』)

 

Nice and cool
my undersides of the feet
on the wall

 

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土壁

 

麦の穂を便につかむ別れかな

むぎのほをたよりにつかむわかれかな

 

 元禄7年(1694)5月の作。前書に「五月十一日武府ヲ出て故郷に趣ク。川崎迄人々送りけるに」とある。それに先立つ5月初旬、芭蕉の送別会が催された。その際に芭蕉は「今思ふ体は浅き砂川を見るごとく、句の形・付心ともに軽きなり。其所に至りて意味あり」と述べて、門人らに「軽み」を説いている。この旅にて芭蕉が客死したことを思えば、結果的に蕉風俳諧の至境を遺言としたとも言える。

 5月11日、江戸を発つにあたり、見送りの門人らに掲句を残して別れを惜しんだ。離別の悲しみに加えて、体力的に衰えもあり、麦の穂を掴んでやっと身体を支えているといった哀れさが伝わってくる。また、麦からは「青人草」が連想され、俳諧の寄方はあくまでも庶民性にあることが暗示されているような気がする。

 

季語 : 麦の穂(夏) 出典 : 『赤冊子草稿』

 

An ear of wheat
grasping it for standing
at the farewell

 

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麦の穂

むめがゝにのつと日の出る山路かな

むめがかにのつとひのでるやまじかな

 

 元禄7年(1694)正月頃の作。早暁、山道を登っていたところ、ちょうど昇ってくる朝日に遭遇したのである。折しも、側には梅が花を咲かせて良い香りを漂わせている。あたかもその芳香に誘われたかのように現れた日輪の場景に「のつと」という口語的なオノマトペによって悠然とした臨場感が巧みに醸し出されている。

 ちなみに、以前、気功を極めた老女が舞を舞ったところ、清らかな梅の香りが辺りに広がったということを聞いたことがある。それは天地との交流を介して発せられた氣による現象だったのかもしれない。それ思うと、掲句に詠まれたものは、単なる情景ではなく、芭蕉の詩魂と天地の交流による詩境と言えるだろう。つまり、それは、雅な梅と朝日が「のつと」という俗的な表現によって、雅俗を超克した「天地人」の交流が体現されたものと思われる。そこに晩年の芭蕉が志向した「軽み」の至境が存するのだと思う。

 余談であるが、芭蕉俳諧精神に心動かされて日本各地にその句碑が建てられている。私の郷里である五島列島にもまさに掲句が刻まれた句碑がある。それは江戸後期に五島・富江藩主の五島伊賀守運龍公が富江神社境内に建立したものである。当時、武士も船頭も一緒になって俳諧を楽しんだと伝えられている。もちろん、日本の西の果ての五島に芭蕉が訪れたことはないが、その俳諧精神は人々の心を介して時空を超え、日本中に広まったのである。たかが俳諧されど俳諧であり、その言葉の力はもとより、俳諧の芸術性に感受性を持つ日本人の文化的水準の高さには驚きを禁じ得ないものがある。

 

季語 : むめ(春) 出典 : 『炭俵』

 

Plum blossoms' fragrance
suddenly the sun comes out
on a mountain path

 

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梅と朝日

蓬莱に聞ばや伊勢の初便

ほうらいにきかばやいせのはつだより

 

 元禄7年(1694)正月、江戸・芭蕉庵での作。蓬莱とは、新年の飾り物で、三方の上に紙、歯朶 、昆布、 楪はを敷き、その上に米、橙 、熨斗鮑、蓬莱、橘 、 勝栗、 野老、穂俵、海老など、山海の幸が盛られた。中国の伝説における「蓬莱」は、東方海上にある、不老不死の三神山(蓬莱、方丈、瀛州)の一つに由来し、新年を縁起物とされた。ちなみに、のちに瀛州が日本と見なされたり、あるいは、日本国内にも仙境とおぼしき各地に蓬莱伝説が残っている。伊勢もまた山海の幸に恵まれた土地柄であり、天照大御神が鎮座する神域として不朽であり、まさに「蓬莱」と言っても良いかもしれない。

 掲句は、江戸にありながら、蓬莱に伊勢の神々しさを思い浮かべて、そこからの初便を聞きたいものだと願ったもの。ちなみに俳諧の祖とされる荒木田守武伊勢神宮の祠官であり、「元日や神代のことも思はるゝ」と詠んでおり、歳旦に際して、敷島の道にとって重要な伊勢の地に芭蕉の心が動かされたに違いない。芭蕉は死んでもその詩魂は不滅であることに鑑みると、俳諧精神の原点が伊勢なのだから、それもまた伊勢が「蓬莱」に相応しい所以と言えよう。

 

季語 : 蓬莱(新年) 出典 : 『炭俵』

 

Penglai decoration
I'd like to ask it about the 1st news
from Ise

 

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伊勢神宮皇大神宮(内宮)

入月の跡は机の四隅哉

いるつきのあとはつくえのよすみかな

 

 元禄6年(1693)の作。同年8月に72歳で他界した榎本東順を追悼する句。東順は、其角の父で膳所藩本多侯の侍医であった。『東順伝』によれば、東順は60歳頃、医業を辞めて隠居し文筆に専念した。『東順伝』には「市店を山居にかへて、樂むところ筆をはなたず、机をさらぬ事十とせあまり、其筆のすさみ車にこぼるゝがごとし。湖上に生れて、東野に終りをとる。是必大隠朝市の人なるべし。」とある。

 東順亡き後に残されたその机の四隅まで見入れば、窓に沈む月の円さと相俟って、「水は方円の器に随う」を思い出させる。そう考えると、その人品は、業にあって良医、筆を持って能書であったのではないだろうか。もちろん、はるかに没する月は、東順の魂を暗示して、愛用の机は故人を彷彿させて悲しみもいっそう深まる。

 

季語 :月(秋) 出典:『東順伝』

 

The moon going down
leaving four corners of the desk
of the departed

 

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