2021-02-01から1ヶ月間の記事一覧
ほととぎすいまははいかいしなきよかな 延宝末年〜貞享初年の作(推定)。ホトトギスは古来より和歌に詠まれてきたが、今、この声を聞いてもそれを句にすべき真の俳諧師はもはやいない世であると嘆いているのである。 延宝年間(1673年〜1681年)には、貞門…
はすいけやおらでそのままたままつり 貞享5年(1688)7月、尾張・鳴海の下里知足邸での作。折しも下里家では精霊会が行われており、その庭の池には蓮の葉が繁っていたのであろう。それは折り取られることもなく、先祖へそのまま手向けられているのである。…
はつあきやうみもあをたのひとみどり 貞享5年(1688)初秋の作。前書に「鳴海眺望」とある。鳴海は東海道五十三次四〇番目の宿場であったが、現在では埋め立てにより、歌枕の鳴海潟は消失し、海を見ることはできない。掲句は、当時、そこにあった児玉重辰亭…
おもしろうてやがてかなしきうぶねかな 貞享5年(1688)、岐阜長良川で鵜飼を見ての作。『笈日記』には「稲葉山の木かげに席をまうけ盃をあげて」とあり、芭蕉は闇夜に篝火が灯る鵜舟を河畔から眺めた。初めは、その珍しい漁に興味が湧いて酒も進むが、やが…
このあたりめにみゆるものはみなすずし 貞享5年(1688)5月、美濃長良川河畔での作。『笈日記』には、この前文として「十八楼ノ記」と題した次のような記載がある。 みのゝ国ながら川に望て水楼あり。あるじを賀嶋氏といふ。いなば山後にたかく、乱山兩に重…
たこつぼやはかなきゆめをなつのつき 貞享5年(1688)4月、明石での作。蛸壺は、蛸を捕らえるための素焼の壺で、浮標をつけて海に沈めて、そこに入った蛸を引き揚げる。潮目が変わる際に天敵から身を守るために蛸が穴に隠れ潜む習性を利用したもので、多く…
わかばしておんめのしづくぬぐはばや 貞享5年(1688)4月、奈良での作。『笈の小文』の前書に「招提寺鑑眞和尚来朝の時、船中七十余度の難をしのぎたまひ、御目のうち塩風吹入て、終に御目盲させ給ふ尊像を拝して」とある。また「灌仏の日(旧暦4月8日)は…
ゆくはるにわかのうらにておいついたり 貞享5年(1688)の作。『笈の小文』旅にて、吉野、高野山と山路を経て、ようやく3月末に和歌浦に着いた際に詠まれたもの。紀伊山地ですでに春を見送ったと思ったが、大海に開けた和歌浦における暮春の佳景に巡り会っ…
ちちははのしきりにこひしきじのこゑ 貞享5年(1688)春、高野山での作。長くなるが、『枇杷園随筆』に記された掲句の前文を次に示す。 高野のおくにのぼれば、霊場さかんにして法の燈消る時なく、坊舍地をしめ仏閣甍をならべ、一印頓成の春の花は、寂寞の…
しばらくははなのうえなるつきよかな 貞享5年(1688)、吉野での作とされている。(『蕉翁句集』)咲き誇る桜の上に、朧に花を照らす春の月が輝いている。そして、やがて月は西に傾いて、この花月の照応による佳景も消え去ることが「しばらく」という措辞か…
ほろほろとやまぶきちるかたきのをと 貞享5年(1688)の作。『笈の小文』では「西河(にしかう)」と前書がある。そこは、音無川が吉野川に合流するあたりの地域であり、「滝」は、川の激流や早瀬も指すことから、そのいずれかの河畔で詠まれたものと思われ…
ひばりよりそらにやすらふたうげかな 貞享5年(1688)、『笈の小文』の旅での作。同年2月、伊賀上野で父の三十三回忌法要を済ませた芭蕉は、3月19日、伊勢で再会した杜国を伴い、吉野を経て、父母の菩提を弔うために高野山へ向かった。「臍峠 多武峰ヨリ龍…
さまざまのことおもひだすさくらかな 貞享5年(1688)3月の作。『笈日記』には「同じ年の春にや侍らむ、故主君蟬吟公の庭前にて」と前文があり、伊賀上野へ帰郷した際に藤堂良忠(蟬吟)の嫡男・良長(探丸)に招かれて、その別邸(下屋敷)で詠まれた句で…
なんのきのはなとはしらずにほひかな 貞享5年(1688)2月の作。『笈の小文』には「伊勢山田」、『真蹟集覧』には「外宮に詣ける時」とそれぞれ前書があり、伊勢神宮参拝の時に詠まれたものと思われる。もちろん、西行の「何事のおはしますかは知らねどもかた…
いざさらばゆきみにころぶところまで 貞享4年(1687)12月3日、名古屋の書林風月堂に立ち寄り、主人・長谷川夕道の風月亭において、如行、夕道、荷兮、野水、芭蕉の五人で連句を詠んだ際に掲句も作られたとされる。その真蹟には上五が「いざ出でん」とあり…
くすりのむさらでもしものまくらかな 貞享4年(1687)の作。『笈の小文』の旅中、芭蕉は、11月21日に鳴海から熱田へ移り、同月25日には名古屋の医師で門人の山本荷兮を訪ねている。『皺筥物語』には「一とせ此処(熱田)にて例の積聚さし出て、薬の事医師起…
たかひとつみつけてうれしいらごさき 貞享4年(1687)11月の作。『笈の小文』の旅で、芭蕉は、越智越人(尾張蕉門の重鎮)を伴って、三河渥美郡の保美村に隠棲していた門弟の坪井杜国を訪ねた。杜国は名古屋で米穀商を営む名家に生まれて家業に携わるが、貞…
たびびととわがなよばれんはつしぐれ 貞享4年(1687)の作。『笈の小文』の旅へ出る芭蕉のために催された送別会の際に詠まれたとされる。この旅は、同年10月に江戸を発ち、まず尾張の熱田と鳴海に向かい、越智越人を訪い、同伴して三河の保美に坪井杜国を尋…
よくみればなづなはなさくかきねかな 貞享3年(1686)の作。薺と言えば、春の七草の一つとして、若菜が食用とされることはよく知られている。花柄の先にある果実の形が、三味線の撥に似ているところから、三味線草、あるいは、その擬音語から、ぺんぺん草と…
めいげつやいけをめぐりてよもすがら 貞享3年(1686)の作。宝井其角の『雑談集』に「芭蕉庵の月みんとて舟催して参りたれば」と前文があり、其角など門人たちが水路を経て深川の芭蕉庵を訪ね来て、月見をした際の句と思われる。第二次芭蕉庵に「古池や」の…
ふるいけやかはづとぞこむみづのをと 貞享3年(1686)の作。近年における蕉風俳諧への回帰志向は、平成16年(2004)に長谷川櫂が、その著書『俳句的生活』の中で展開した、掲句についての新しい解釈に端を発する。要するに、「どこからともなく聞こえてくる…
やまぢきてなにやらゆかしすみれぐさ 貞享2年(1685)3月の作。前書に「大津に至る道、山路をこえて」とある。『皺筥物語』には、「白鳥山」と前書きされ、「何とはなしになにやら床し菫草」と記されているが、これは初案であり、のちに「山路来て」と改作…
いのちふたつのなかにいきたるさくらかな 貞享2年(1685)、近江・水口での作。前書に「水口にて二十年を経て故人に逢ふ」とある。故人(旧友)とは、服部土芳のことで、藤堂藩に出仕した頃から芭蕉に俳諧を学ぶ。しかし、寛文6年(1666)、芭蕉は、主君・…
からさきのまつははなよりおぼろにて 貞享2年(1685)3月、近江・大津での作。「辛崎」は、唐崎、韓崎、辛前とも書かれる。柿本人麻呂が「ささなみの志賀の唐崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ」と詠んだ歌が『万葉集』に見え、古くから港が置かれていたこ…
うみくれてかものこゑほのかにしろし 貞享元年(1684)12月、熱田での作。前書に「海邊に日暮して」(『甲子吟行』)とある。また、「尾張の国熱田にまかりける比(ころ)、人々師走の海みんとて船さしむけるに」(『皺筥物語』『熱田三謌僊』)との前文も見…
あけぼのやしらうをしろきこといつすん 貞享元年(1684)10月、伊勢桑名での作。この句の前文に「草の枕に寝あきて、まだほのぐらきうちに濱の方に出て」(『甲子吟行』)とあり、各務支考の『笈日記』には、「おなじ比にや、浜の地蔵に詣して」とある。浜の…
しにもせぬたびねのはてよあきのくれ 貞享元年(1684)9月下旬、『甲子吟行』(『野ざらし紀行』)の旅において、当初から予定されていた大垣の谷木因邸に到着したときの作。木因は廻船問屋の主で、北村季吟門下として、芭蕉とは同門のよしみもあり、旅の途…
みそかつきなしちとせのすぎをだくあらし 貞享元年(1684)8月30日、伊勢山田、豊受大神宮での作。前書きに「暮て外宮に詣侍りけるに、一ノ華表(とりゐ)の陰ほのぐらく御燈處々見えて、また上もなき峯の松風にしむ計(ばかり)、ふかき心を起こして」とあ…
