きやうにてもきやうなつかしやほととぎす
元禄3年(1690)6月20日付の書簡に掲句の原句が見える。ちょうど4月初旬から7月下旬まで「幻住庵」に隠棲していた時期に当たるから、一時的に京へ出向いた際の句と思われる。
京にいながらにして、時鳥の鳴き声を聞けば、かつての京が懐かしく思い出されるという句意。上五の「京」は、芭蕉が今いる現在の「京」であり、中七の「京」は昔の「京」ということになる。平安時代頃から時鳥は「黄泉の国へ通う鳥」というイメージがあったり、別名「不如帰」は「帰るに如かず」つまり「帰りたい」という意味があることから、その鳴き声は、帰れない過去への追慕を催させるのかもしれない。実際、万葉集から懐旧を誘う時鳥の声が多く詠まれている。あるいは、素性法師の「いそのかみ古き都の郭公(ほととぎす)声ばかりこそ昔なりけれ」(『古今和歌集』)という歌のように、変わらぬ時鳥と変貌する都にまさに「不易流行」を思わせるものもある。
一方、「時鳥鳴くや五月の菖蒲草あやめも知らぬ恋もするかな」詠み人知らず(『古今和歌集』)など、恋心をかき立てるものとして時鳥の声が捉えらえられた歌も多い。脱藩後の芭蕉が京の北村季吟に入門したと言われており、その際、若い芭蕉にとって、儚い情事があったかもしれない。
いずれにしても、掲句の眼目は、時鳥の声によって現在と過去が交錯するところに詩性が立ち現れているところである。ところで、H・ベルクソンは時間の本質をその連続性に求めたのに対して、G・バシュラールは、その著書『持続の弁証法』のなかで、時間を非連続的なものと捉え、リズム的波動の移相における「瞬間」こそが時間の本質と言っている。つまり、ベルクソン的な、つまり一般的な水平的時間の流れとは別に、空間的に同じ「京」を時間的に差異化する時鳥の声は同時にそれらを調和させる瞬間を垂直的な時間として詩的昇華させる。そこには、変わらないものと変わるものが調和する京という地域的な特性も影響していると思うが、今の京も昔の京も芭蕉の方寸にあって絶妙な詩境が掲句に立ち現れている。
季語 : ほとゝぎす(夏) 出典 : 『をのが光』
Yet in Kyoto
yearning for Kyoto
a singing cuckoo

