むざんやなかぶとのしたのきりぎりす
元禄2年(1689)7月27日、加賀・小松での作。芭蕉は、太田神社(現・多太神社)を参詣し、斎藤実盛の兜と錦の直垂を拝している。前者は源義朝より、後者は平宗盛より下賜されたものである。
実盛は、越前の出身であるが、のちに武蔵の幡羅郡長井庄(埼玉県熊谷市)を本拠とした武将である。大蔵合戦にて義朝に討たれた旧主・源義賢の遺児・駒王丸を預かり、その乳母を娶って信濃にいた中原兼遠のもとに送り届けたが、この駒王丸こそがのちの旭将軍・木曾義仲であった。
平治の乱によって義朝が倒れると、武蔵に落ち延び、その後は平維盛の後見役となって平氏に仕えることとなる。のちに平氏一門による専制政治を嫌った以仁王によって平家追討の令旨が発せられると、木曽にあった義仲もこれに呼応し信濃にて挙兵し、破竹の勢いで越後へ進軍する。これを迎え撃つため、維盛が率いる10万とも言われる軍勢が北陸へ出撃するが、倶利伽羅峠の戦いに続いて、篠原の戦いでも敗北してしまう。その殿(しんがり)を務めた老将・実盛も奮戦むなしく、義仲の家来・手塚光盛に討たれてしまう。享年73歳。「最期は若々しく戦いたい」と考えていた実盛は戦の前に髪を黒く染めて出陣したため、首実検でも身元が定かではなかったが、近くの池でその首を洗うと白髪の実盛であることが判明する。そこで義仲は、かつての命の恩人を討ち取ってしまったことを知り、悲しみにむせび泣いたと伝えられている。
掲句は、のちに義仲が太田神社に奉納した実盛の兜を前にして詠まれたものである。武士にあっては、戦での果敢な討ち死には「弓矢取る身の習い」としての美学とはいえ、恩人や肉親などを殺めてしまう場合は無念であろう。そこに残された兜から、実盛のことはもちろん、義仲のやるせない痛念を感じ取った芭蕉の思いもただならぬものがあったろう。つい口を衝いて出た「むざんやな」という表現にも納得させられる。しかも、その下に蟋蟀(天明期以前「きりぎりす」は蟋蟀を指した)が鳴いている。そこから連想される「闘蟋」にもののふの「あはれ」が象徴されているのかもしれないが、そうであるかは別として、その鳴き声は実盛や義仲の悲哀そのものとして芭蕉には聞こえたのである。
余談であるが、映画『ラスト・エンペラー』の最後で年老いた溥儀が故宮の玉座に隠してあった虫具を開けると蟋蟀が出てきたことを思い出す。清朝時代の虫具は芸術の域に達するが、義朝より拝領した実盛の兜(国指定重要文化財)も、目庇から吹返しまで菊唐草の彫刻に金を鏤めて、龍頭には鍬形を打ちつけた立派なものであった。そうであればこそ、余計に「もののあはれ」が心に迫ってくる。
季語 : きりぎりす(秋) 出典 : 『おくのほそ道』
What a pity!
under the war helmet
a cricket is chirping

