あらうみやさどによこたふあまのがは
元禄2年(1689)7月4日、越後・出雲崎での作か。芭蕉は午後3時過ぎに出雲崎に到着した。しかし、『おくのほそ道』には、越後路の段に掲句が記されているが、当地のことが一切触れられていない。おそらく、前段に「病おこりて事を記さず」とあることから、体調不良によるものと思われる。そこで、のちに当時の詳細を芭蕉が別に記した『本朝文選』の「銀河の序」を以下に示す。
北陸道に行脚して、越後の国出雲崎といふ所に泊る。彼佐渡が島は、海の面十八里、滄波を隔て、東西三十五里に横折り伏したり。峰の嶮難谷の隈々まで、さすがに手にとるばかりあざやかに見わたさる。むべ此島は、黄金多く出て、あまねく世の宝となれば、限りなき目出度島にて侍るを、大罪朝敵のたぐひ、遠流せらるゝによりて、たゞ恐ろしき名の聞えあるも、本意なき事に思ひて、窓押し開きて、暫時の旅愁をいたはらむとするほど、日既に海に沈で、月ほの暗く、銀河半天にかゝりて、星きらきらと冴えたるに、沖のかたより、波の音しばしば運びて、魂削づるがごとく、腸ちぎれて、そゞろに悲しび来れば、草の枕も定らず、墨の袂何ゆゑとはなくて、しほるばかりになむ侍る。
あら海や佐渡に横たふあまの川 「銀河の序」
この末尾にも掲句が記されており、本来、『おくのほそ道』に記すべき掲句の前文とも言える。そこには、出雲崎から見た昼間の佐渡はもとより宿の窓から眺めた夜の情景が述べられているが、古来、死一等を減ぜられた罪人や朝敵などが送られた「遠流」の島であることに芭蕉の心が動かされていることがよく分かる。
佐渡に流された人々としては、順徳天皇、日蓮、世阿弥などがよく知られている。この中で日蓮以外は島で没している。(一説には世阿弥に帰洛説あり)「荒海」には、まさに流人にとっての艱難が象徴されている。かつて殉死を免れて脱藩の罪を犯して「社会的な死」を味わった芭蕉にとっては、彼らの辛苦が身に沁みて感じられたことであろう。それは「銀河の序」に、配流された人々を悲しんで断腸の思いにかられたと記されていることからも覗える。その悲劇の島である佐渡に横たわって天空に輝く銀河の美しさが、かえって、哀愁を際立たせる。また、a母音による頭韻(類韻)も壮大な詩境を支えている。
ただ、実際には当夜、天文学的に銀河が佐渡方面には見えなかったというのが定説となっている。しかし、そうであればなおさら、脚色であっても、芭蕉がせめて虐げられた魂をいたわるために「天の河」を光る橋として佐渡へ架けたことが「詩想」として諒解できよう。また、「横たふ」が他動詞であるから文法的に瑕瑾があるという向きもあるが、前述したように芭蕉が横たえたとすれば問題はない。もっとも、芭蕉とうよりも、彼と同化した詩神を主語としたものと考えれば良い。
季語 : 天の河(秋) 出典 : 『おくのほそ道』(『本朝文選』「銀河の序」)
A rough sea —
spanning it to Sado Island
with the Milky Way

