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芭蕉百句 100 haikus of Basho

芭蕉百句の評釈と英訳 100 haikus of Basho selected and translated into English by Takatoshi Goto  © 2021 Takatoshi Goto

夏草や兵どもが夢の跡

なつくさやつはものどもがゆめのあと

 

 元禄2年(1689)5月13日、平泉高館での作。平泉では、高館、衣川、衣ノ関、中尊寺、光堂などを訪れている。まず源九郎判官義経の居館があった高館から巡ったのも、やはり、彼の悲劇的な最期を悼む思いが強かったからと思われる。高館は北上川に面した小さな丘陵であり、藤原秀衡より庇護された義経の居館があったところである。そこからの眺望などが『おくのほそ道』に記され、掲句の前文ともなっているため、そのまま以下に引用する。

 

 三代(藤原清衡、基衡、秀衡)の栄耀一睡の中にして、大門(平泉館の南大門)の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す。まづ高館に登れば、北上川、南部より流るる大河なり。衣川は和泉が城を巡りて、高館の下にて大河に落ち入る。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て南部口をさし固め、夷(えぞ)を防ぐと見えたり。偖(さて)も義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時の叢(くさむら)となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠うち敷きて、時の移るまで泪を落とし侍りぬ。(『おくのほそ道』)

 

 義経は、源平の合戦で目覚ましい活躍を果たしたが、兄の源頼朝より謀反の疑いをかけられて、ついには朝敵とされて追われる身となった。そこで若い頃、平氏の追っ手を逃れて一時庇護してもらったことのある藤原秀衡を頼って奥州平泉へ落ち延びていた。しかし、秀衡の死後、その後継となった泰衡は頼朝の圧力に屈して、「義経の指図を仰げ」という父の遺言を破って、500騎にて高館の衣川館を攻めてわずか10数騎の義経主従を自害させてしまった。無抵抗の義経とその妻子が籠もる持仏堂の前で、武蔵坊弁慶が立ち往生したことでも知られる。

 衣川の戦いは、文治5年閏4月30日(1189年6月15日)というから、ちょうど芭蕉が高館を訪れた時季と重なり、夏草が生い茂っていたと思われる。戦も含めて人の諸行は儚いものであることが、生命力に溢れた夏草を目にするといっそう哀れに感じられる。もっとも、戦に勝った者も負けた者も全てはもうそこにはいない。そして、今は盛りの生物学的遺伝子の作用により夏草もやがては枯れていく。そこに「物の微」を見据えながらも、あくまで文化的遺伝子として受け継がれ続ける義経主従の非業を偲び、敗者や死者の魂に寄り添うことによって知られる「情の誠」に芭蕉は心を動かされる。『おくのほそ道』が、滅び行くものへのレクイエムでもある所以である。まさに掲句はまさにそうした心の複雑な機微を詩的に昇華していると言える。

 

季語 : 夏草(夏) 出典 : 『おくのほそ道』

 

Summer grasses —
only remaining dreams
of the soldiers

 

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高館義経堂・平泉