さなへとるてもとやむかししのぶずり
元禄2年(1689)5月2日、信夫の里(福島市山口文字摺)での作。芭蕉は、しのぶもぢ摺りの石(信夫文知摺石)を尋ねて当地を訪れたが、その石は下半分を土に埋もれて放置されていた。里の子供が言うには「昔は此山の上に侍しを、往来の人の麦草をあらして此石を試侍をにくみて、此谷につき落せば、石の面下ざまにふしたり」と。「しのぶもぢ摺」は「摺り衣」を作る際に石の上に布を置き、忍草(シダの一種)の葉や茎を摺りつけて乱れた模様を出した染色技法をいう。その文知摺石がある信夫の里は古来よく知られ歌枕でもあった。
「みちのくの忍ぶもぢずり誰ゆえにみだれそめにし我ならなくに」(『古今集』)という河原左大臣・源融の歌は有名であり、もぢ摺の模様に揺れ動く恋心が託されている。これには、融が陸奥で知り合って相思相愛となった虎女を残し再会を約して都へ帰るが、この歌が届く直前に虎女が息絶えるという悲恋譚が付随している。融との再会を願って観音堂に願を掛け、虎女が麦草で磨き続けたのが文知摺石であり、満願の日に磨かれた石に一瞬だけ融の姿が映し出されるが、虎女は精根尽きて死んでしまうのである。
おそらく、そうした悲恋譚を知っていた芭蕉は「しのぶもぢ摺の石」に特別な思いを寄せていたが、何と言うことか、その石は農作業に邪魔ということで谷に突き落とされてしまっていたのである。
掲句からは、折しも、田植えの時期ということもあり、早乙女の手もとを見るにつけて、昔の染色作業のみならず虎女の手もとも芭蕉は思い浮かべたに違いない。「しのぶ」には「信夫」「偲ぶ」あるいは「忍ぶ」が掛けられており、貞門俳諧の発想が見えるが、あくまでも、捨て置かれた「文知摺石」の惨状と歌枕ゆえの風雅との葛藤を、世は変われども古今に通じる一途な「早乙女の手もと」によって詩的に超克しようとする芭蕉の俳諧精神が覗える。
季語 : 早苗(夏) 出典 : 『おくのほそ道』
Hands picking rice sprouts
remind me of the old dyeing with ferns
on the large stone

