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現代俳句選抄

ご恵贈頂いた書誌から、五島高資が感銘した俳句などを紹介しています。© 2021 Takatoshi Goto

山路来て何やらゆかしすみれ草

やまぢきてなにやらゆかしすみれぐさ

 

 貞享2年(1685)3月の作。前書に「大津に至る道、山路をこえて」とある。『皺筥物語』には、「白鳥山」と前書きされ、「何とはなしになにやら床し菫草」と記されているが、これは初案であり、のちに「山路来て」と改作されたと考えられている。「何とはなしになにやら」では、主観的で冗長の感が否めないが、「山路来て」と推敲して、主客合一の詩的昇華として「すみれ草」が生きてくる。少し長くなるが、頴原退蔵の解釈が要を得ているので、それを以下に引用する。

 「山科あたりから小関越でもして大津の方へ出て行つたのであらう。あまり人も通らない山路に、ふと薄紫の色に咲く菫草を見出したのである。普通の路傍か野原などであつたら、さして心もとゞめなかったであろうが、さうした山路では何となくゆかしく覚えて、暫くはそこを立去ることができなかつたのだ。静寂な境の中で、微かなものの美しさが、あるなつかしさで心にしみこんで行くさまが感ぜられる。」(「芭蕉俳句新講」『頴原退藏著作集・第七巻』)

 初案の前書にある「白鳥山」は尾張・熱田にある法持寺の山号であり、その由来は、当時、日本武尊が葬られたとされる白鳥陵を管理していたことによる。『甲子吟行』の旅でも同寺で芭蕉が三吟歌仙を催したことが知られている。熱田は平地の港町であり、「何とはなしに」と詠まざるをを得なかったのかもしれない。未だ得心せず温めておいた句が何らかの契機でのちに点睛を得ることはよくあることである。

 ちなみに、北村季吟の長子・湖春が「菫は山によまず。芭蕉俳諧に巧なりと云へども、歌学なきの過也」と難じたが、去来が山路で菫を詠んだ歌を例証としてこれに反論し、湖春の難が当たらないことが定着している。しかし、やはり山で菫を詠んだ歌は少数であり、だからこそ、山路において菫を詠むことは、それなりの希少性を伴いつつ、歌学における常識や旧弊を打破するという意味においても掲句は俳諧自在の面目躍如というべきかもしれない。

 いずれにしても、掲句において、菫草は「山路」によって日常性から開放され、その非日常的な「物の微(しかり)」が闡明され、その小さく可憐な姿に天然造化の妙に心を動かされ、心詞を超克する、奥ゆかしい「情の誠」が立ち現れるのである。「何やら」と吐露せざるを得なかった所以でもある。

 

季語 : すみれ草(春) 出典 : 『甲子吟行

 

On a mountain path
wild violets fascinate me
beyond words

 

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菫草