しにもせぬたびねのはてよあきのくれ
貞享元年(1684)9月下旬、『甲子吟行』(『野ざらし紀行』)の旅において、当初から予定されていた大垣の谷木因邸に到着したときの作。木因は廻船問屋の主で、北村季吟門下として、芭蕉とは同門のよしみもあり、旅の途中で木因を訪ねるのもその目的の一つであった。ところで、大垣藩士には俳人も多いが、それは木因の指導によるところが大きく、度重なる芭蕉の来訪も相俟って、のちに蕉風俳諧が美濃に広がる要因となる。
この旅は、貞門・談林の二項対立的詩想を超克し、客死も覚悟で臨んだ文学修行でもあった訳だが、ひとまず、江戸から大垣までを歩ききった安堵感が掲句から感じられ、木因との再会を喜び、その屋敷に逗留し、旅の疲れを癒やす芭蕉が彷彿される。
ちなみに、当時、芭蕉は四十一歳、つまり、現在で言えば、いわゆる「アラフォー」ということになるが、江戸時代にあっては四十歳の異称が初老であり、実際にも老境の入り口であった。「死にもせぬ」という表現には、少し大げさな諧謔も感じられるが、芭蕉が感じ始めた老いは、人生の旅路とも重なって切実さを伴っていたに違いない。また、「秋の暮」には、単なる「秋の夕暮れ」という意味だけでなく、人生の「果て」を見据えた哀愁も覗われる。
いずれにしても、決死の思いで旅立った『野ざらし紀行』の旅は、実体験に裏打ちされた「侘び」の精神を培い、その後における蕉風俳諧の確立に寄与する大きな成果をもたらすことになる。
季語 : 秋の暮(秋) 出典 : 『甲子吟行』(『小文庫』)
Not yet dead
the end of sleeping away from home
on an autumn evening